「デモ行進とピラミッド」(小田実)より2008/08/11 00:03:17

最近読んだ本からの覚え書きです。
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「デモ行進とピラミッド」(1969年発表)より
ーー『「難死」の思想』(小田実著:岩波書店刊)所収
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 「デモ行進の思想」というようなものがあっていいと私は考える。デモ行進の体験に根ざした、そこから出発するものの考え方、たとえば、民主主義観と言うようなものがあっていいに違いない。あるいは、人間観、論理、倫理。
 デモ行進のなかで歩いていて、一つ感じるのは、自分の体の中のピラミッドが音をたてて崩れ去ることである。おそらく、人は誰しも体内にピラミッドをもっているのだろう。それは次のようなピラミッドだ。
 たとえば、あなたがある革新政党のえらい人だとする。革新政党でもこのごろは立派なビルディングが本部だから、委員長だか書記長だかのあなたは本部のそうした人のための室にいる。外界の風はそこまで吹き入って来ない。そこまで来るためには、玄関があってロビーがあって受付があってエレベーターがあって長い廊下があって応接室があって控室があって、右翼が乗り込んでくる事はなかなかむつかしい。いや、そうしたのが来れば、あなたはただちに部下の右翼係に命令して彼に合わせるだろう。「お話はその人に言って下さい。」あなたは右翼に電話でそんな風に言ってすませる。うるさい何トカ派の学生が来たら、左翼係。弁舌の立つのをそろえておこう。いや、このごろの学生は「ゲバルト」好きだから、右翼係同様に屈強で、しかも、頭のいい奴だ。こうしたあなたの城の本拠までたちどころに達するものがあるとすれば、それは、逮捕状をもち、家宅捜索令状をもった警官たちだけだが、あなたは、自分の城の快適さになれてしまって、そうしたものさえもがもはや自分のところにまで達し得ないのだという錯覚にかられる。あるいは、その快適さを維持するために(たとえ、それが幻想であれ、幻想は壊したくはないし、その幻想の下で重要な事が出来る!)、きわめて「合法的」に生きようとする。
 (略)おそらく、それは、(略)多分に人間ひとりひとりの精神の問題なのだ。直接的な聖治のことがらを離れて考えてみてもよい。人間、誰しもいやなことはいやなことだ。死体がころがっていれば、葬儀屋にまかせよう。事故を起せば、事故係にまかせよう。(略)自分ひとりの心の中にもピラミッドはあって、私たちは、架空の事故係や女房や犬にさまざまな事を押しつけているのではないか。自分で全面的にその事に正面からぶつかる代わりに。
 デモ行進に出ると、そうしたピラミッドはあっけなく崩れて平らになる。あなたがおえら方であったところで、自動車に乗っていてはデモ行進にならない。まず、あなたは歩く。それだけで、あなたの背丈はたちまちとなりの見知らない若者と同じになって、もはや、あなたはピラミッドのいただきからの、あの全体を見わたす展望をもっていない。あなたはみんなと同じふつうの人間で、二本の足でいっしょに歩くしかない人間で、あなたの横にはあなたのための事故係も犬も右翼係も左翼係もいない。右翼が近づいてきてもあなたは生ま身の自分をさらけ出さなければならないだろうし、何とか派の学生にむかっても正面からむきあわなければならない。いや、そこでいやおうなしにもっともむきあわなければならないのは、デモ行進を規制しようとする警察機動隊のジュラルミンの楯だろう。彼らは、その気になれば、あなたがどのようにえらい人間であろうと、容赦はしないにちがいない。デモ隊に対する放水は区別なくあなたを濡らす。あなたのからだの中のピラミッドを水びたしにする。どこにも、もはや、逃げ場はない。
 そうした状況のなかで、あなたが感じるのは、自分がひとりでむき出しに権力のまえに立っているという感覚ではないのか。デモ行進の指導者は、なるほど、「ここに結集した一万人の市民は・・・」と叫びたてているかも知れない。しかし、その一万人は決してあなたを護るためにピラミッドをかたちづくっているのではない。どれだけの数の人間がそこにいようとも、結局、あなたはひとりなのだ。それは異様にきびしい、また、さびしい感覚で、私自身、何度かそうした感覚をもった。もっとも、そんなふうな感覚は、たとえば、メーデーのお祭り騒ぎのデモ行進の中では生まれて来はしないだろう。そうしたお祭り騒ぎのデモ行進は、ピラミッドがそのまま移動して行くようなもので、あれはデモ行進ではない。
 その感覚がきびしく、さびしいのは、一つには、あなたがピラミッドをもたず、むき出しで権力のまえに立っているのに、権力のほうはピラミッドで対しているからなのにちがいない。いくらあなたが「佐藤政権打倒」を叫んでみたところで、あなたの声はピラミッドの頂上の佐藤栄作氏の耳にはとどかず、あなたが相手にしているのは、実際にはあなた以上に惨めな生活を送っているかも知れない機動隊員なのだ。そして、今もし、あなたがその機動隊員に捕まえられたとするなら、あなたはたちまち国家権力のピラミッドの奥ふかくとらえられてしまって、気がついたときには、犯罪者としてピラミッドの頂上に引き出されているのかも知れない。
 一万人の市民がデモ隊の中にいたとしてもあなたはひとりだ。ということは、あなたの行動を決めるのはあなた自身であり、あなた自身以外にはないということだろう。それはまさに「自立」だが、あなたのその姿勢には、そうしたことばがともすればいざないがちな強いイメージー強者のイメージはない。もちろん、あなたがそこに踏みとどまっている以上はあなたは決して弱者ではないはずだが、そこに雄々しさがまぎれもなく見られるとしても、それはあくまで人間的な、等身大の雄々しさであって、巨人のものではない。そして、連帯があるとすれば、むしろ、それは、自分がひとりだという自覚から来るだろう。ひとりである自分がデモ隊の中には無数にいるという自覚ーそれが辛うじて連帯をかたちづくり、その連帯は強い。それしか自分にはあり得ないと人間が自覚したとき、それは強い。
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小田氏は、このデモ行進の中から得られる民主主義の根幹は、「自立」だといい、投票所・議会というイメージから連想される、多数決を基礎とする民主主義の考え方と対置します。
多数決は、「自立」の積み重ねの結果、採用される政治運用の技術に過ぎない。
それに対して、「自立」を根幹とする民主主義とは生き方の原理なのだ、と。

私はこのようなデモを経験したことはありません。
だから、デモを経験するなかで得られてくる、このような感覚、思想をとても新鮮に感じます。

60年代、70年代にはこのようなデモはもっと多く行われていたのでしょうが、現在ではめっきり減っています。
それは、このような、行動の中から生まれてくる民主主義の感覚・思想を、現代の多くの日本人が遠く忘れてしまったということでもあります。

現在でも、数はずっと少なくなっても、沖縄・辺野古での反基地運動、プラレカリアートによるデモ等、小田氏が示しているようなデモ行進は行われています。
警察の対応も、「連合」などによる整然としたデモへの対応とはまるで異なるようです。

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