「青春怪談」2008/09/21 00:21:31

先日、大阪はシネ・ヌーヴォ九条で開催されている『市川崑監督追悼特集上映』へ行ってきました。
その時の感想を。

まずは「青春怪談」

映画の出来としてはまとまりがないと思うが、主人公二人の人物造型が凄い。
ドライで、とは言え薄情ということではなく、性の隔たりも気負いなく越え、自分の生き方を見すえている。
現代の人間像より遥かに「現代的」に思える。
これだけでも、市川崑監督って凄かった、と感じる。

「古都」2008/09/21 00:22:18

シネ・ヌーヴォ九条『市川崑監督追悼特集上映』

「古都」
市川崑監督の狙い通りに切れが良くかつ情感豊かな演技を重ねて行く岸恵子に比べると、山口百恵はどうもメリハリがなく鈍重に感じてしまう。
それでも、ラスト、苗子を見送った千恵子が堪え切れなくなったようにガクッと戸に倒れ掛かり、岸恵子に駆け寄り泣き崩れるところは、思わず声を掛けたくなる上手さだった。

2箇所くらいで現代の車の走る影が見えてしまうのが残念。

「幸福」2008/09/21 00:23:00

シネ・ヌーヴォ九条『市川崑監督追悼特集上映』

「幸福」
エド・マクベイン原作故の権利関係のせいか、ロードショー公開以後は殆ど上映されていない作品。
現在はフィルムセンターが所蔵しているらしい。
銀残しによりくすんだ色調にしたことがこの映画のテーマを見事に強調していると思う。

最近たまたま本で読んだのだが、不安神経症というのは極度のストレスにより精神に変調を来す症状だそうだが、その現れ方には、暴力的になる症状と、逆に喜怒哀楽の感情が現れなくなる症状の2種類があるということだ。

この映画での(銀残しにより強調されている)色のくすんだ社会の描写は、その不安神経症のように深く病み、喜怒哀楽を失いつつある今の社会のありようを見事に表現しているように思える。
それでいてそこに描かれて行くのは、不安神経症によるもう片方の症状のように、極めて暴力的な事件だ。

このような内容の作品においても市川崑監督の軽妙なところは、最初の方の病院のシーンで、谷啓を始めとする刑事たちが話しているところへ看護婦が現れる箇所等に伺われる。
しかし、この映画を観た者に最も印象深く残るのは、恐らく、水谷豊演じる刑事の家庭生活や、市原悦子扮する女とその家族の生活の重苦しさであり、それ故にこそ、その中から幸福を求めて行こうとする水谷豊とその子供らに心打たれる。

冒頭の公衆電話ボックスで話す中原理恵のアップから永島敏行への切り返し、そこから生活道路を埋め尽くすように連なり走るトラックの描写とその回りの人々の様子、とカットの連なりも軽快でかつこの作品のテーマをしっかりと伝えている。
心に残る傑作だ。

「さようなら、今日は」2008/09/21 00:24:45

シネ・ヌーヴォ九条『市川崑監督追悼特集上映』

「さようなら、今日は」
これは、驚いた!
こんなに面白い映画だとは!!

主人公は若尾文子扮するキャリアウーマン(公開当時はまだそんな言葉はなかったろうが)と京マチ子演じる日本料理屋の若女将。
二人は大学時代からの親友なのだが、どちらも仕事に生き、男などくだらないと歯牙にもかけない。
というとぎすぎすした女性像かといえば、さにあらず。

二人のやり取りは市川崑監督の真骨頂というべきか実に軽妙で、セリフもポンポンと小気味いいくらいに繰り出してくる。
この二人の、実利的で、と言って人間的に薄情な訳でもない、家族に対して愚痴もこぼしつつ思いやりも十分にある、そして、女性としての可愛らしさも感じさせる女性像を見事に描いている。

特に若尾文子演じる女性については、ベッコウぶちというのか、ふちの厚いメガネをかけながらもツンとすましたところを感じさせつつ感じさせない、京マチ子からも指摘される、人を小ばかにしたような妙な笑い方がおかしい、可愛いさを醸し出している。
この笑い方が、なんでこんな笑い方を考え出せるんだ? と思わず思ってしまうくらいにおかしい。

しかも、もう一点、この作品で驚いたのは、市川崑監督が「小津」をやっている、ということだ。
「小津」というのは、そう、小津安二郎である。
そもそもこのストーリーが、上述の女性二人を主人公にしつつ、若尾演じる女性は妹と男やもめの父親との3人家族という、「小津的テーマ」を内蔵しているのだ。

そして、日本間でのローアングルでのカット、ふすまや壁、廊下の直線を強調したカット、更には佐分利信演じる父親と娘の会話や、若尾と京マチ子との会話では、いかにも小津的なセリフのやり取りが行われるのだ。
これがまた、崑監督独特の洒脱で軽妙な小気味よさを感じさせつつ、「小津」を思わせるセリフのやり取りにもなっていて思わず笑ってしまう。
それは小津作品へのオマージュ(パロディ?)としても面白いが、そこにまた若尾と京マチ子の二人の「現代的」でドライかつ厚情な、気持ちのいい関係が表されている、という構造になっているのである。

いやはや、こんな面白い映画が、きっとまだまだ、日本映画の歴史の中には埋もれているのだろうな、と思う。

カナザワ映画祭2008 フィルマゲドン2008/09/21 01:26:03

9月12日〜19日まで開催されていたカナザワ映画祭。

13、14日の2日間、スタッフとしてお手伝いをしてきました。
スタッフとしての仕事をしつつ観ることの出来たのは主に、クリスピン・グローバー氏のビッグ・スライドショーと駅前シネマのオールナイトだったのですが、

クリスピン・グローバー氏の映画は凄かったですね。
人柄はとても優しそうで、いい人なのですが(サイン会に参加したお客さんが、「超いい人!」と感激しながら帰っていきました)、作る映画は、観る人の神経をギギギ〜ッと、これでもか! とヤスリで擦り付けてくるような映画です。
人が心の中でタブーと感じていることを敢えて表に出し、観る人が考えざるを得ないようにする、そんな映画です。

映画の前に、クリスピン氏が本の朗読を行うスライドショーがあるのですが、これがまた、私は英語はからきしダメなのですが、きっと英語が解ればメチャクチャ面白いんだろうな、と思わせるような内容でした。
勿論、字幕は翻訳を映画評論家の柳下氏にお願いして映画祭で付けたのですが、ニュアンスとか、間とか、が解れば、きっと数倍面白い。
これを、アメリカ以外ではこのカナザワ映画祭が初めて企画した、というのは、エライことやったなぁ、と思います。

駅前シネマのオールナイトは前回に引き続き映画祭では2度目。
以前は、駅前シネマでのオールナイトは、毎年、日本映画のベスト10選出を兼ねて行われていたのですが、それを復活させたものです。(内容はベスト10ではありませんが)
真夜中に映画館で映画を観る為に多くの人がたむろし、白々と夜が明けるのを迎える。
私も学生時代にはそんな経験を何度もしましたが、こういう経験を繋いで行けるといいな、と改めて思いました。

今回の映画祭は日本未公開の作品も何本もありましたが、映画祭の趣旨に沿う形で何とか公開したいと、映画祭の若いスタッフが字幕を付けて上映を行いました。
地方の映画祭でここまでやったのは画期的でしょう。

私は企画については全くタッチしておらず、未公開作品の翻訳、字幕まで付けて上映すると知って大丈夫なのか? とも思っていたのですが、そして実際、ギリギリまで大変だったようですが、何とかやってしまいました!
私もスタッフの一員とは言え、大したものだ、と言ってしまいます(^_^)

「盗まれた恋」2008/09/25 01:17:02

大阪シネ・ヌーヴォ九条での市川崑監督追悼特集。
観に行くのもこれで最後。今回は3本観ました。

まずは、「盗まれた恋」を観たのですが、

冒頭からビックリ!!
クレジットを見たら確かに音楽は伊福部昭!
何がビックリって、オープニングタイトルに流れているテーマ音楽が、殆どゴジラシリーズの自衛隊のシーンに掛かるテーマ曲!
さすがにあちこちアレンジされているけど、メロディーラインはしっかり残っている
世相を皮肉る内容とは言え、恋愛ドラマですよ!?

映画の出来としては特にいいとも言えないかもしれない。
男女ともハキハキした人物が動き回るが、男(森雅之)の役どころに無理がありすぎかも

ラストで、僕は何にでも粘ってコレコレをやってきた、と得意気に語る男に、傍で聞いていた東野英治郎が、女に失敗したからコレか、と呟くのが面白い。

「恋人」2008/09/25 01:24:13

市川崑監督の代表作のひとつに挙げられる「恋人」。
今回の第一のお目当てはこれでしたが、期待に違いませんでした。

「恋人」
結婚を明日に控えた女性(久慈あさみ)が幼なじみの男性(池部良)をデートに誘う。
互いに秘めていた気持ちが揺れて…。

というストーリーなのだが、冒頭とラストが、式数日後の久慈の両親を池部が訪ねてきたシーンになっていて、本筋は回想の形になっている。
この前後のシーン、言い換えると両親のやり取りが実に効いている。
若い二人の揺れや悔恨を、改めて強調する効果を出しているのだ。

池部良の、ちょっと恨めしそうな趣きで久慈を見つめる目つきがいい。
あっけなくも気持ちを告白しかけるが、久慈の余りにあっけらかんとした反応に、後は自制心を以て一歩距離を置こうとする池部に、久慈は憤慨もし、引っ張るようにデートに連れ回す。
(何と勝手な!)

だが、態度や言葉には表さないけれど、彼をデートに誘い引っ張り回す行為にこそ、彼女の気持ちは表れていた、ということだろう。

真夜中、最終電車に乗り遅れてしまった後、やっと久慈は気持ちを口に出す。
だが、その時にはもう池部は自分の気持ちを抑えてしまっている。

今の自分の気持ちを信じちゃいけない、と池部は言う。
明日になっても君はそう言えるのか、とも、小さく呟くように…。

明日になっても言えるのか、と男は想い、
明日になったら言えないから、今しか言えないから、今、応えて。そうすれば…、と女は想う。

すれ違いの恋が、こうして終わる。


いや、終わらないんだ。
と、久慈の父親(千田是也)は言う。
セイさん(池部)はどうするんでしょうねぇ、と母親(村瀬幸子)が問うでもなく言う。
そのうち、結婚するさ。
お互いに、ずっと想い合っていくのさ……。

結婚し、子どもを産み、その生活を大切に思いながら、心のどこかで誰かのことを、ずっと忘れずにいる。

そうなるんだろう、と娘と幼なじみの男のことを、二人は思う。


池部が訪ねる娘の家は、洋風の裕福そうな家庭。二人がデートで出掛ける先は、喫茶店、映画館、スケート場、ダンスホール。
その二人の装いも高級そうで洒落ているが、娘の両親の、特に父親の語らいも実にダンディだ。
この映画が、戦後6年で生まれていることに驚く。

そして、人は心の中に想いを秘めたまま生きて行くのだ、という思い(常識)が、ほんの30年後には変わってしまうことに、世相の変化の激しさを思う。

「億万長者」2008/09/25 02:08:42

最後に観たのがこれ。

「億万長者」
シュールなシリアス劇とでも言おうか。
戦闘機のジェット音を怖がる主人公(木村功)の様子は、黒澤明監督の「生き物の記録」を思い出させる。

描かれるどん底の生活は、80年代に撮られた『幸福』を連想させ、この間、この国は成長したのだろうか、との思いにとらわれる。

「恋人」や「愛人」のような映像を撮る一方でこのような作品も撮っている市川崑監督の幅の広さを感じる。

それでも、「生き物の記録」のようにシリアス一辺倒でなく、
戦争の陰をまだ引きずりながら急激な経済成長と共に汚職が蔓延している現実をカリカチュアライズして描いているのが、市川崑監督らしいタッチと言えるのだろう。

ただ人物像としては、話の内容上どうしてもジメジメしてしまう木村功の主人公よりも、現実的でありながら小気味の良い、山田五十鈴演じる芸者の方が魅力的に映っている。

この映画のラストは、主人公と、どん底暮らしの青年(岡田英治)が原爆に恐れおののいて走り去るところで終わるのだが、解説を読むと、「結末をカットした配給会社に抗議し、監督は自らの名もフィルムから削った。」とある。
本当はどんなラストだったのか、とても気になる。

「20世紀少年」2008/09/28 01:43:52

2008年9月27日(土)/福井シネマ
製作:2008年度・日本
監督:堤幸彦
脚本:福田靖/長崎尚志/浦沢直樹/渡部雄介
原作:浦沢直樹「20世紀少年」(小学館ビッグスピリッツコミックス刊)
出演:唐沢寿明/豊川悦司/常盤貴子/香川照之/石塚英彦 /宇梶剛士/宮迫博之/生瀬勝久/小日向文世/佐々木蔵之介/石橋蓮司/中村嘉葎雄/黒木瞳
================================
う〜ん。
そこそこ面白かったが、
これだけの大事件が起これば、当然、社会には大混乱が起き、緊張感が高まるだろうと思うのだが、それが感じられない。なので、映画全体にも緊張感が感じられない。

ケンジが指名手配された後は、幼馴染にも警察の監視が付いて行動が制限されるだろうに、そういうところも描かれておらず、妙にのんびりした印象を受ける。

思うに、マンガで読んでいる時は、描かれている事件によって社会的にどんな状況になっているかを、読者は自然と頭の中で想像してしまっているのだろう。
ところが映画では、どんなシーンを撮っていても背後に社会の様子が見えている。その部分が、事件に関係ないような、通常の描かれ方をされていると、違和感というか、事件による緊張感を欠いてしまうのだろう。
マンガでは暗黙の了解になっていることを、映画では丁寧に描き直さなければいけないのだ。

この映画はワンカットワンカット、原作に忠実に撮ったとのことだが、読み物を映画にするには、それだけでは足りないのだ。

キャスティングは見事だった。
原作のキャラクター通りの役者を揃えたのは勿論、子役についても大人になってからの役者の顔を彷彿とさせる子役を探してきている。
こういうことが、映画では大事だと思う。

貧困を大きく報道しない国2008/09/29 01:07:28

(朝日新聞 2008年9月28日付/10版/24面/「TVダイアリー」より)

 「ネットカフェ難民」は「貧困」の象徴。拡大する貧困の氷山の一画だと感じます。私がこの問題にかかわるようになったきっかけは、87年に札幌で起きた餓死事件でした。パートかけもちで働く母子家庭の母親が3人の子を残して餓死。体調を崩し福祉事務所で生活保護を求めると「まだ働けるはず」と申請用紙さえ渡されず追い返された末でした。報道すると、「女なら体を売れば良い、と言われた」など涙声の訴えが全国から殺到しました。
 最近でも北九州市の「オニギリ食いたーい」と日記を残した餓死事件など生活保護がからむ悲劇が続いています。背景には、職員にノルマを課してでも保護費を減らそうとする行政や、周囲の厳しい目、当事者自身が生活保護を後ろめたいものだと思わされている風土があります。
 マスコミも不勉強。生活困窮者の実態や制度をあまり報道してきませんでした。
 札幌の餓死事件の後、英国に駐在して驚きました。いざと言う時に保護を求めるのは当然の「権利」。郵便局に申請用紙が置かれ、貧困問題は頻繁に、大きく報道されています。貧困は社会全体の病気。解消しないと国力にも響く。だからこそ大切な問題なのだという国民のコンセンサス。
 他方、日本では「貧困は自己責任」とされがち。報道もマイナーな扱いですが、実は世界ではメジャーな、重要テーマなのです。(水島 宏明 NNNドキュメント・ディレクター)
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