『昼顔』2009/03/16 02:37:56

2009年3月15日(日)/シネモンド
★★★★☆(★5つで満点)
製作:1967年度
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン・クロード・カリエール
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャン・ソレル、ミシェル・ピコリ、
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大分、以前に一度観ているはずなのだけど、こんなに面白かったとは。

セヴリーヌは寛大で優しい夫を持つ若妻。夫は有望な医師で豊かな生活を送っている。
だが、セヴリーヌは不感症で夫とのセックスを拒んでおり、
しかし、その一方で、夫や馬車の御者に無理矢理、馬車から引きづり出され、両手を縛られ、素肌に鞭打たれることを妄想している。
セヴリーヌはある日、友人の一人が娼館で体を売っていることを知り、心が騒ぐのを覚える。

迷いに迷った挙げ句、娼館を訪ねたセヴリーヌ(ドヌーヴ)は、カネで体を売る身に自らを堕としめることで初めて快感を得ることが出来るーー。

この映画は、堕としめられ、辱められることで初めて快感を得ることが出来る、いわゆるSMの嗜好、性(さが)を描いた作品だ。
それを、人間の行為の一つとして、時には上品さや尊厳と同時にあるものとして描いているところが、この映画が傑作とされる所以ではないか?

ミシェル・ピコリ扮する夫の友人フッソンはカネとヒマを持て余した猟色家で、セヴリーヌにさえ色目を使う。セヴリーヌはそんなフッソンを嫌うが、それは恐らく、自分と同じものを本能的にフッソンに感じているからだ。
好きの反対が嫌いなのではない。好きの反対は無関心なのであり、同根だからこそ、遠ざけようとすることもあるのだ。
フッソンの方はそんなセヴリーヌの本性を嗅ぎ取っていたのか、わざわざ娼館の場所を詳しくセヴリーヌに話す。
しかし、それは、そのことでセヴリーヌをものにしようと考えたからではないのだろう。
彼は、セヴリーヌがそれを望んでいることを本能的に気付いていたから教えてやったのだ。

実際、娼館でセヴリーヌに出会ったフッソンは、娼婦になった君に興味はない、と帰ってしまう。そこでのフッソンの態度は誠実さを感じるほどだ。

性的快感の充足感をやっと知ったセヴリーヌは娼館通いを続ける。
セヴリーヌの態度を疑う夫に負い目を感じながら、「あなたへの愛は快感への欲求を越えるわ」と心の中で詫びつつ、快感の欲求を求め続ける。

セヴリーヌの夫は、娼館で彼女に熱を上げたチンピラに銃で撃たれ、全身麻痺になってしまう。(チンピラは警官に撃たれて死亡)
娼館を辞め、夫の世話に専念するセヴリーヌはもう妄想は見ることはない。
映画の冒頭、セヴリーヌが御者に鞭打たれることになる妄想は、馬車にセヴリーヌと夫が乗っていることが分かるシーンから入るのだが、ラストでの妄想に現れる馬車には、もう二人は乗っていない。

セヴリーヌは一度快感を得たことで満足したのだろうか? だから妄想を見なくなったのだろうか?
多分、そうではない。
全身麻痺により不能となった夫の世話をすることで、やっと、SMの性(さが)から抜け出ることが出来たのではないか?
そんな気がする。
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