乳首を見せぬ女たち2009/06/07 02:31:25

日本のアニメ作品を実写映画化した『ラスト・ブラッド』は、冒頭の地下鉄のシーンから目を瞠らされる。
このアニメ作品の世界観をきっちり実写で描こうとしているのがよく分かる。
地下鉄のシーン、東京の飲み屋街などのシーンの雰囲気も然り。

また、ドラマの舞台に米軍基地を中心に据え、そこから広げて行ったのも、欧米のスタッフが日本を舞台にした作品を描くにあたって、無理なく、よく考えた設定だと思う。
米軍基地へ朝、入ってゆく件(くだり)の描写などは活き活きとしていて素晴らしい!
このクリス・ナオンという監督は『キス・オブ・ザ・ドラゴン』という、ジェット・リーがギャングのボスからブリジット・フォンダを助け出す作品が監督デビュー作だったが、この映画も面白かった。
『ラスト・ブラッド』を観ていた時は監督が誰か知らぬままだったので、この米軍基地のシーンには、この監督、何者!? と思ってしまった。

マンガを実写化するのに、ただマンガのカット通りに撮って行けばいい、などとは、この監督は考えていないのだろう。

特撮の技術に関して言えば、今どきのハリウッド作品の水準から言えば、?と感じる部分もあるが、そんなことはどうでもいい。
勿論、世界観を描出させる手立てとして技術は重要だが、より重要なのはどういう世界を描くかと言うことで、その点でこの映画は見事に成功している。
オニの親玉演じる小雪も貫録充分に描かれており申し分ない。
ジュースが入っていそうな容器から血をすすり、刀片手に飛んで蹴って、斬りまくるチョン・ジヒョンも勿論、いいのだが、いいと思うにつれ、ひっかかるのが、何故、これが日本女優で描かれていないのだ? ということだ。

主人公は日本人なのですよ? サヤ、という名前からも分かるし、母親だって日本人だ。

以前にも、『SAYURI』という紛れもなく日本女性を描いた映画の主役が、チャン・ツィイーだった。
なぜこうも、日本の作品を世界が映画化する際に日本人女優が選ばれず、中国や韓国の女優が選ばれるのか?

最近、男優の方は、渡辺謙を始めとし、役所広司、オダギリ・ジョー、浅野忠信とか、更には木村拓哉まで(!)、海外に活躍の場を広げ始めている。
なのに、女優のほうはサッパリだ。
日本女優が世界レベルの作品の主要な役に抜擢される場合も、日本国内で知られた女優ではなく、菊地凛子(『バベル』)や芦名星(『シルク』)など、日本国内で無名の女優が大抜擢されるケースが目立つ。

なぜだ?

英語などは問題にならない。男優だって条件は同じだ。

『シティ・オブ・ゴッド』のフェルナンド・メイレレス監督作品で世界的にも注目された『ブラインドネス』という作品には、日本から伊勢谷友介と木村佳乃が夫婦役で出演していた。が、木村佳乃が他の女性たちとシャワーを浴びるシーンを観て唖然としてしまった。
久しぶりに体を洗うことが出来る解放感に、屈託なくシャワーを浴びる女性たち。当然そのシーンでは女性たちのそういう気持ちに合わせ、その肢体もシャワーを浴びる中で伸び伸びと飛び跳ねる。自然とそのカットの中には乳房も見え隠れするーーのに、木村佳乃の乳房だけは一度もカットの中に出てこない。ジュリアン・ムーアなど世界的女優たちは自然に表しているのに、木村佳乃の乳房だけが表れないのは却って不自然だった。

『ブラインドネス』が昨年のオープニングを飾ったカンヌ映画祭。今年、その「ある視点」部門に出品された是枝裕和監督作品『空気人形』は日本を舞台にした作品だ。
主人公は等身大の女性人形ーー『ラースと、その彼女』で主人公ラースが恋人にする、男性が恋人の代り(セックスの代役)として使用するリアルな女性ドールーーで、その人形が人間の心を持ったら、というのが映画のテーマだ。
そういう設定だから、当然、映画の中には主人公(人形)に対する性的なシーンも出てくるのだろう。
この主人公(人形)を演じるのが、またまた、日本女優ではない、韓国の人気女優ペ・ドゥナだ。
何故、日本人女優が演じないのか?
是枝監督は言う。「日本の女優はCM契約などで制約が多い。初めから無理だと諦めていた」

なるほど、主要な日本人女優が映画の中で裸を見せず、セックスのシーンを避けるのは、何も本人が嫌がっている訳ではなく、CM契約の制約があるから?
なるほど。日本国内で映画やTVで女優でござい、と演技している人たちは、映画でどんな役を演じるか、ということよりもCMにちゃんと出られることの方が大事ということだなのか。

それでは世界で相手にされないのも当たり前。納得がゆく、というものだ。

国立マンガ喫茶2009/06/09 01:41:30

政府・与党が成立させようとしている14兆円にも及ぶ今年度補正予算の案件の中に、「国立メディア芸術総合センタ(仮称)」の建設があります。

アニメやマンガ、ゲームに関する作品や情報の収集・保存を行い、海外へのショーケース的な役割も担う考えで、日本文化に関心を持つ外国人に「最先端の日本文化に触れられる場」にする、のだそうです。

この建設に117億円を投ずるということですが、
少しはマンガやアニメに詳しい人が聞けば、正に噴飯物と思うことでしょう。
アニメーターがどれほど苦しい生活の中で仕事を続けているか、業界のことを知っている人なら、そのことを知らない筈がありません。

http://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY200905300101.html
http://www.mypress.jp/v1_writers/tyryk/comment/?story_id=80133
http://www.zakzak.co.jp/top/200905/t2009053001_all.html

勿論、こういうのは「実力の世界」でしょうから、会社勤めより貧富の差が激しいのは仕方がない面もあるでしょう。
(最近は会社勤めだって、変わらなくなってしまいましたが)
しかし、国策としてアニメーション産業を振興しようと言うなら、若手が夢を持って入ってゆけるような、夢を追いながらそこそこ生活も維持してゆけるような状況整備、制度作りをやることこそが政策というものではないでしょうか?

しかし、恐らく、少なくとも今の政府を担っている与党政治家の面々、官僚の面々には、そんな政策立案能力などないのでしょう。
だから、アニメ振興、と言っても、こういうハコモノ作りしか頭に浮かばないのです。
或いはそうでなければ、元々「アニメ振興」など、謳い文句にしただけで端からやるつもりなどなく、何か大きなハコモノを作る理由付けにしたに過ぎないのでしょう。
でなければ、こんなバカな内容で、政策でござい、などと言える訳がありません。

自民、公明党の政治家は口を開ければ、与党は責任政党、野党には政策立案能力がないなどと言っていますが、この1点みるだけでも、彼(女)らに政策立案能力など既にないことは明らかです。
そして、彼(女)らに政策立案能力がないことは、少なくともバブル期には明らかになっていたと言うべきでしょう。

日本経済が空前のバブル期に狂っていた(今だから、狂っていた、と私も言えますが)1980年代後半。1988年に自民党政府(竹下政権)は「ふるさと創生事業」として、各市町村に一律1億円を交付しました。
使い道は各自治体に任せる、という大盤振る舞いですが、要は、バブル景気で有り余る国税収入の使い道が分からず、自治体に丸投げした、というのが実情でしょう。
(困ったら自治体丸投げ、というのは、最近の定額給付金でも同じですね)

まともに国の政策のことを考え、将来像を持っていれば、今手元にあるカネをどうすべきか、どう使うべきか、貯めておくべきか、判断してしかるべきです。
なのに、当時の自民党政府は、使い道が分からず、人気取りに1億円をばらまいたのです。各市町村に。

そんなことをするくらいなら、3割自治、などと既にもっと以前から地方自治の問題は明らかになっていたのだから、国と地方との役割分担について見直しを掛けるべきであったはずです。
しかし、そんなことをする気もなく、結局、地方自治のあり方については問題が山積みになり、ばらまかれた各市町村の1億円も、殆どは後に残らない無駄金になりました。

それでも当時はまだ、好景気(バブル景気)による原資が、ばらまきには充てられました。
しかし、今回の補正予算は、既に800兆円を超す借金の上に更に10兆円の借金を重ね、後に何も残らないハコモノを作ろうとしているのです。

自民・公明党政府に、政策立案能力など、或いは政策をやろうという気など、端から無いというべきです。

カンヌ国際映画祭2009/06/10 02:27:20

ちょっと遅ればせながら、今年のカンヌ国際映画祭の授賞式を見ました。
驚きのひとつは、久しぶりにイザベル・アジャーニを見たこと。

残念でした。
何かあったのかもしれませんが、ふくよかになっていた。
15歳の時になるのか、『アデルの恋の物語』を観た時のことはずっと記憶に残っています。絶世の美女と言うのは、彼女のようなことをいうのだろう、と思います。

誰でもが、その容姿に美を与えられる訳ではありません。だから、類い稀な美を与えられた人には、それを研ぎ澄ませていって欲しいし、その義務がある、とさえ思います。
イザベル・アジャーニほどの美女であれば、それほどの美を授かった責任を負って欲しい、と思うのです。
だから、今日観たイザベル・アジャーニは、残念でした。


それはそれとして、カンヌ国際映画祭授賞式、とてもよかったです。
映画と言う、ひとつのことを愛する人たちが集い、素晴らしい功績を為した人たちを祝福する。
そういう場は、傍で観ていても、とてもすがすがしい、気持ちの良いものでした。
パルムドールを取ったミヒャエル・ハネケ監督の『白いリボン』は勿論のこと、ロウ・イエ監督やパク・チャンヌ監督の新作も観たいですね。

高福祉高負担2009/06/12 00:13:35

昨日、今日の朝日新聞に、高福祉国家スウェーデンの紹介記事が載っている。

印象に残ったところ。
ーーボルボに働いていたが解雇された三五歳の男性。就職の目処は立たず失業保険に頼るしかない。
愛車を売り、狭いアパートに引っ越した。だが、
「学校は無料で子どもの出産費用もかからなかった」
税金は高いけれど払い続ける、らしい。

失業してすぐに仕事が見つからなくても、それで路頭に迷うと言うことはない。
失業保険で何とかやってゆける、子どももそのまま学校へ通わせることが出来るし、医療費も心配の必要がない。
それなら、いざと言う時も安心出来るだろう。
セーフティネットとは、こういうことを言うのだ。

これほどの高負担高福祉の背景には、政治に対する市民の厳しい「目」がある。
チョコレートを公費で購入した国会議員が政界を一時追われたこともあったという。
『重い負担を国民が受け入れるのは、政治への信頼があるからこそ』

考えてみれば、だから、日本の政治家は高負担高福祉をいやがるのではないか?
高負担となればいやが上にも国民の政治への目は厳しくなる。
政治家にとってみれば、それよりも低負担で国民が余り政治に興味を持ってくれない方が助かる。
その方がより、好き勝手をしやすいから。

黒テント金沢公演「新装大回転 玉手箱」2009/06/17 01:29:36

演劇にも興味はあるのですが、なかなか手が回りません。
友人で、金沢で演劇の公演をずっとプロデュースしているヤツがいまして、彼からのお知らせです。

場所:金沢21世紀美術館・シアター21
日時:7月31日(金) 18時半開場/19時開演

黒テント金沢公演 「新装大回転 玉手箱」

の上演です。

一般:前売3,500円/当日4,000円
学生:前売・当日共2,500円
問い合わせ:もっきりや 076−231-0096

以下、友人から、「玉手箱」への招待状です!

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 晒すという事とはどういうことなのだろうか。と、考える機会があった。
 と、いうのも7月に公演する劇団黒テントの一条さゆりを題材にした「新装大回転 玉手箱」について想ったからだ。
 ストリッパーとは自らの肉体を晒け出している。彼女たちは美しい衣装を身にまとい,生めかしい照明を当てられ裸体を晒す。彼女たちは本当に自分達を晒しているのだろうか。彼女たちは、ストリッパーを演じているのではないのか、そして観客は演じられている、もしくは虚像の裸を観ているのではないのだろうか。

 一条さゆりは、猥褻罪で何度も逮捕され、拘留、釈放を繰り返す。マスコミにも取り上げられ、文化人にも支持されメデアにも登場し、結果、伝説化されていった。そして、引退興行で公然猥褻罪により逮捕され実刑判決を受ける。
 ここで矛盾するのは、観客の記憶の中の舞台上に在ったストリッパーの彼女と鉄格子の中の彼女だ。そこには一つの肉体でありながら二人の彼女が居たのではないのだろうか。我々も又、時、場所、人等の違う状況の中で違う自分が在るのではないのだろうか。その相対性のなかでただの肉体自体しか存在していないのではないだろうか。

 この作品は、あるストリッパーの一代記を描いているわけではない。

 我々は裸になれるのか、自分を晒け出せるのだろうか。そのような事を考え、「新装大回転 玉手箱」という芝居と向き合いたい。   

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黒テント「新装大回転 玉手箱」
http://www.ne.jp/asahi/kurotent/tokyo/09tamatebako/
「新装大回転 玉手箱」金沢公演
http://www.ne.jp/asahi/kurotent/tokyo/09tamatebako/kanazawa.html
金沢21世紀美術館
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=24&d=573

『Milk』2009/06/28 02:31:38

2009年6月25日(木)/福井コロナワールド
★★★★☆(★5つで満点)
製作:2008年度
監督:ガス・ヴァン・サント
脚本:ダスティン・ランス・ブラック
出演:ショーン・ペン、エミール・ハーシュ、ジョシュ・ブローリン、ジェームズ・フランコ、ディエゴ・ルナ、アリソン・ピル、ビクター・ガーバー、デニス・オヘア、ジョセフ・クロス、スティーブン・スピネラ、ルーカス・グラビール、ブランドン・ボイス、ハワード・ローゼンマン、ケルビン・ユー

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「全ての人は少数派である」という言葉を思い出していた。

ハーヴェイ・ミルクは、自らがそうであるゲイを代表しただけではない。高齢者、障害者、貧しい者、全ての少数派の為に闘った。
多くの者は自らを多数派だと思い込み、「少数派」の人たちのことには思いが及ばない。逆に「少数派」が何か異議を立てると、皆がこれでいいと思っているのに勝手なことを、と反感を抱く。

だが、私たちは、何かの意味で必ずや、少数派だ。例え、今そうでなくとも、時として簡単に少数派に変わってしまう。
ゲイであることは、その端的な場合だ。ゲイでなくとも、その性癖、何かに対する意見、そのいずれか、幾つかで、私たちは、内心、少数派であることが多い筈だ。
だが、そのことを押し隠して、私たちは大抵、「多数派」の振りをする。
その方が取り敢えず、「安全」だから。

突然、自分の土地が公共事業で強制収容の対象になったり、会社が倒産、あるいは解雇されたり、苛めなどで、いづらくさせられたり。病気や怪我による失業、障害をもった場合。そして、老いにより誰もが遅かれ早かれ、障害者になってゆく。

あらゆる意味で、全ての人は少数派だ。
少数派のモザイクでこの社会は成り立っているのに、私たちは自らが少数派であること、少数派になることを忘れ、「多数派」のつもりになり傲慢になる。

ミルクを殺害したダン・ホワイトさえ、恐らく少数派だった。そのことを自らの心の底に押さえ込み、自分のことを多数派だと思い込み、ハーヴェイ・ミルクを嫌悪した。
ダンとハーヴェイを別ったのは、自らを認める勇気と、その上での他者への理解と寛容だったろう。

だから、ミルクは、全ての人の代表として、全ての人と闘ったのだ。
事実を受け容れようとせず、他者を断罪しようとする意識と。

ゲイを教職から追放しようとする提案6号への反対集会で、一人の母親が言う。
「この条例が通ったら、子供たちは、自分と違う人たちを理解することをどこで学べばいいの」

別の集会で、ある男性は叫ぶ。
「一人の権利を奪うことは、全ての人の権利を奪うことになるんだ!」と。

ミルクの回りに多くの少数派が集まり、ということは、そこには、この社会が抱える多くの問題が立ち現れることになる。
怯えながらも闘い通した彼の意志に惹かれるように、多くの問題がそこに集まってくる。
言い換えれば、ハーヴェイ・ミルクは命を賭して、それを私たちに示してくれたのだ。

誰かがそれを、引き継がねばならない。
だから、この映画は作られたのだ。
私たちが観るために。
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