東電、国会事故調査委員会の調査を妨害2013/02/08 02:26:34

東京電力と言うのはどこまで腐った会社なのかと思う。何万人という人たちから人生を奪い、多くの命を奪っておきながら、自分たちの利益と延命しか眼中にはないのか。

東電が嘘をついて国会事故調(査委員会)の調査を妨げたのは、復水器と言って、非常事態時に原子炉を冷やす非常手段の一つ。
福島原発事故は「想定外の」津波によって起こった、というのが東電や原発推進派の言い分だが(だとしても許されるものではないが)、国会事故調は作業員の証言から、この復水器が津波が来る前に、地震によって破壊されていたのではないかと疑い、調査をしようとしたものだ。

国会事故調は報告書の中でも、事故の起こった時刻と津波の到来時刻の矛盾から、福島原発事故は津波が来る前に地震によって起こったと指摘しているが、この調査がなされていれば、そのことを具体的に証明出来た可能性が高い。

原発事故が地震によって起こったとなれば、他の原発も含め、耐震性に更に大きな疑問符がつき、再稼働は更に困難になる。だから東電としては絶対にこの調査をさせる訳にはいかなかったのだろう。
つまりは事故の原因究明などより、何とかして原発を再稼働して収益を上げる、そのことしか考えていないということだ。

国会事故調の委員に嘘の説明をした企画部長は、原発建屋にカバーをかけてしまったから真っ暗で調査出来ない、と言った訳だが、実際にはその説明よりも前の日付で、カバーをかけた後も強力な水銀灯で明るく照らされた原子炉建屋内の映像があることが判明し、その嘘がバレた。

東電は意図的に誤ったのではない、つまりうっかり間違えてしまったと言っているが、(元)委員によればこの企画部長は開口一番、建屋内は真っ暗で見えない、と言ったそうだ。つまりはそのことを言うために説明に来た訳で、その一番肝腎なところを確認せずに説明に来る訳がない。意図的な虚偽と考えるのが妥当だ。

東電のこの明からさまな非人間的な体質には怒りしか感じないが、同時に、もし自分がこの企画部長の立場だったらどうしたろうか、とも考える。
原発事故が多くの人々に引き起こしている甚大な被害を目の当たりにしながら、上からは、嘘の説明をして調査を妨害しろ、と言われたら・・・。

調査出来ます、と説明すると信じたい。


『東電、国会事故調にウソ 「原発内真っ暗」→調査断念』
http://www.asahi.com/national/update/0207/TKY201302060574.html?ref=reca

映画「レ・ミゼラブル」2013/02/12 01:57:13

参りました。映画でこんなに泣いてしまったのは久しぶり。

社会格差と貧困、それを許す社会の悲惨さ、非人間性がドラマの根底になっていますが、それは決して200年前の異国の物語でないことは「ふがいない僕は空を見る」を観ても分かります。そのことを忘れて、ただこの映画を観て感動していてもダメなのだと思いました。

この映画の中で、フランス革命の中で死んで行った多くの若者たちが描かれていますが、それを観ながら、私の頭の中には日本国憲法の次の条文が思い浮かんでいました。
『この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練(しれん)に堪(た)へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。』
この条文は日本国憲法の【第3章 国民の権利及び義務】に書かれているのではなく、【第10章 最高法規】の章に書かれています。これは、何故この憲法を、この憲法が定める基本的人権を最高法規とすべきなのか、を示しているものだと思います。

ともあれ、泣いてしまったのは勿論、そういうところではないのですが(笑)、冒頭のダイナミックなシーンから描かれて行くのは社会の最下層の中で屈辱にうちひしがれ、自由を求める人々の姿。そして、そこから自由を得たバルジャンが、生きてきて初めて与えられた愛と寛容により生まれ変わり、人々に自らそれを与えるようになってゆく姿です。
彼がそこまでになるには、多大な努力と苦労があったに違いありません。しかし、幸いにも彼には、それが自らの力のみによるのではないことが分かっていました。あの牧師に出会えた幸運、そして彼に示された愛と寛容があったからこそだということが。
だから、彼は、今度は自らがそれを示そうとしたのです。

現代だって同じ筈です。社会的・経済的な成功が、当人たちによる人並み外れた努力の結果であることは違いないでしょう。しかしその成功は、幾つかの幸運や、多くの低賃金労働で成り立っている社会の恩恵の上に成り立っていることも間違いない筈です。
そのことに気付かない(或いは気付かない振りをしている)人たちが、貧困は怠惰によるものだと言い、社会格差を当然のこととし、自ら得たものは自分の力によるものだと社会への還元を拒否しています。
そのありようは、「レ・ミゼラブル」で描かれている社会と基本的に変わりません。

ともあれ(笑)、そういう貧困と屈辱、その中で必死に愛と寛容の精神を貫こうとし、ファンテーヌを、コゼットを護ろうとしたバルジャンの思いが、ラスト・シーンで漸く報われる。そのことに涙してしまう訳ですが、それで全てが報われた訳では勿論ありません。
革命の中で死んで行った人たちが勝利の歌声をあげるのは、この映画の中ではまだ、夢の中なのです。
その歌声を現実の中で上げることを、「レ・ミゼラブル」は、1862年に上梓されて以来、舞台に、ドラマに、ミュージカルに映画になりながら、願い続けているのだと思います。

ただ、この映画の中で、ファンテーヌが死んでしまうのは積み重なった苦痛と疲労の故、ということは納得出来ますが、バルジャンが死んでしまうのはちょっと唐突な気がしました。何かもう少し描写があると良かったです。(そこで泣いてしまったのは確かですけど!)

「レ・ミゼラブル」の映画化はこれまでにも何度かされているのでしょうが、1997年に制作されたビレ・アウグスト監督、ラファエル・イグレシアス脚本の映画も、こちらはミュージカルではありませんが傑作です。バルジャンをリーアム・ニーソン、ジャベールをジェフリー・ラッシュ、ファンテーヌをユマ・サーマン、コゼットをクレア・デインズと、これも魅力的な俳優陣が演じています。
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