映画「風立ちぬ」感想2013/09/03 22:00:45

「創造的人生の持ち時間は10年間」
ならば、その10年間が不幸な時代に被ってしまった者はどう生きればいいのか。
これは、
幸福な時代、不幸な時代、人が生きて行く時代は誰も選ぶことが出来ない。その中で人はどう生きてゆくべきか、という問いに転じる。
だから、おそらく宮崎監督が己の姿を託した堀越二郎の物語は、私のような凡人にも我が身を映して観ることが出来る。

自分の夢、求めることを為そうとした時、不幸な形でしかそれを実現出来ないとしたらどうすればいいのか。
そんな気紛れで歪んだ時代の中で人の為せる事は、所詮、矛盾だらけで、出来ることは僅かでしかない。
それでも、だからこそ、人に出来ることは、精一杯、悩みに悩みながら、生きること。
人は、そうして生きねばならない。

あの時代、堀越二郎が空を飛行機を作りたいという夢を実現しようとすれば、戦闘機を作るしか無かった。
彼は飛行機(戦闘機)を作ることに全てを掛けた。だが、戦闘機を作る意味を思い、それを断念する道もあった筈だ。軽井沢で出会ったドイツ人のような生き方も。
どの道を選ぶにせよ、命がけでもがいて道を選び、行くしかない。
どの道を選んでも、仲間がいて敵がいて、苦しみがあり、若干の喜びがある。

彼に葛藤は無かったのだろうか。
ただただ、より飛ぶことを目指して、そんなことは頭にも無かったのだろうか。
だが少なくとも、宮崎監督はそう思ってはいない。
「最後にメチャメチャになっちゃった」とラスト近くで堀越自身が言っているのは勿論だが、
それまでにも、彼自身も特高に追われ、軽井沢で隣り合わせたドイツ人のセリフに異を唱えることなく聴いている。
「ここ(軽井沢)はいい。全て忘れることが出来る。中国と戦争を始めたこと、満州国を作ったこと、国際連盟を脱退したこと、……」

このセリフを解するなら、ゼロ戦の意味を分からない訳が無い。
だが、今の若い人たちにそこまで解しろというのは難しい。(それ自体、問題なのだが)
宮崎監督は、これで当然分かる筈、と思っていたのかもしれない。或いは、敢えて、そこまでの説明をしなかったのかもしれない。

戦闘機マニアで戦争には絶対反対の宮崎監督作品の多くに描かれる戦闘機のシーンは、空を飛ぶ軽やかさや躍動感に充ち、私たちを魅了する。そして、そこから私たちが感じ取るのは、決して戦争を支持したり自然を犯すことを赦す思想ではい。
宮崎アニメが大きな人気を博してきた頃には、子供はアニメなど見ずに外へ出て遊ぶべきだ、とも言っている。
自らが抱えているのと同種の悩みを、堀越二郎はその何倍もの重さで抱えていたのだ、と、宮崎監督は考えている筈だ。

この映画を以て、ゼロ戦作りを描いているから(先の戦争を支持しているから)と批判するのは当を得ていない。また、中国や韓国に対して毅然とした態度を取るべきだ、と言うような人たちがこの映画を支持したり誉めているとすれば、大きな勘違いをしていると言うべきだ。

冒頭の夢のシーンで飛行機が屋根から飛び立つシーンの躍動感。
夏の日差し、雪のちらつく冬景色、高原病院のある、早朝の富士山のふもとの凛とした風景など、その季節季節の空気感をしっかりと伝えてくるカット。
関東大震災で街が壊され燃えて行くダイナミックさ、スケールの大きさと、その中を逃げ惑う人々の小ささ。
線路沿いに行く人々を蒸気機関車が蹴散らして行くシーンでの鮮やかなカットの積み重ね。
これらの多くはアニメならではのものと思うが、それでも、どうして実写映画の中でこういう感動を得ることが出来ないのか、と思う。
これらだけでも、この映画は素晴らしい。

奈穂子が高原病院を抜け出して二郎の元へ駆けつけるシーンは、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」で廉姫が城内から戦場へと駆け抜けて行くシーンを思い出し感動した。
ただ、彼女が、「きれいな所だけ二郎に見せるために」病院へと帰って行くエピソードは、感動的だがきれい過ぎる気もするのだがどうなのだろう。堀辰雄の「風立ちぬ」からのエピソードなのだろうか。

エンジン音などの擬音を人の声でやるというのは、大林宣彦監督と言い、巨匠と呼ばれるような人たちだからこそ、実験精神が旺盛なのだな、と思った。
エンジン音や空気を切る音、地震の地鳴りなど、暖かく感じられて驚いた。ただ、宣伝番組のせいで事前に人の声でやることを知っていたため変に意識してしまった。こんなことを知らなければ、もっと素直に感動していたような気がする。

最後にひとつだけ言うなら。
「風立ちぬ」。タイトルのこの一節の次の言葉こそが、この映画のテーマだ。
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