秋桜2013/11/08 01:55:08

これは最近撮った、秋桜。

今年の桜2013/11/07 02:27:14

季節外れですが、春に撮った写真です。

映画「風立ちぬ」感想2013/09/03 22:00:45

「創造的人生の持ち時間は10年間」
ならば、その10年間が不幸な時代に被ってしまった者はどう生きればいいのか。
これは、
幸福な時代、不幸な時代、人が生きて行く時代は誰も選ぶことが出来ない。その中で人はどう生きてゆくべきか、という問いに転じる。
だから、おそらく宮崎監督が己の姿を託した堀越二郎の物語は、私のような凡人にも我が身を映して観ることが出来る。

自分の夢、求めることを為そうとした時、不幸な形でしかそれを実現出来ないとしたらどうすればいいのか。
そんな気紛れで歪んだ時代の中で人の為せる事は、所詮、矛盾だらけで、出来ることは僅かでしかない。
それでも、だからこそ、人に出来ることは、精一杯、悩みに悩みながら、生きること。
人は、そうして生きねばならない。

あの時代、堀越二郎が空を飛行機を作りたいという夢を実現しようとすれば、戦闘機を作るしか無かった。
彼は飛行機(戦闘機)を作ることに全てを掛けた。だが、戦闘機を作る意味を思い、それを断念する道もあった筈だ。軽井沢で出会ったドイツ人のような生き方も。
どの道を選ぶにせよ、命がけでもがいて道を選び、行くしかない。
どの道を選んでも、仲間がいて敵がいて、苦しみがあり、若干の喜びがある。

彼に葛藤は無かったのだろうか。
ただただ、より飛ぶことを目指して、そんなことは頭にも無かったのだろうか。
だが少なくとも、宮崎監督はそう思ってはいない。
「最後にメチャメチャになっちゃった」とラスト近くで堀越自身が言っているのは勿論だが、
それまでにも、彼自身も特高に追われ、軽井沢で隣り合わせたドイツ人のセリフに異を唱えることなく聴いている。
「ここ(軽井沢)はいい。全て忘れることが出来る。中国と戦争を始めたこと、満州国を作ったこと、国際連盟を脱退したこと、……」

このセリフを解するなら、ゼロ戦の意味を分からない訳が無い。
だが、今の若い人たちにそこまで解しろというのは難しい。(それ自体、問題なのだが)
宮崎監督は、これで当然分かる筈、と思っていたのかもしれない。或いは、敢えて、そこまでの説明をしなかったのかもしれない。

戦闘機マニアで戦争には絶対反対の宮崎監督作品の多くに描かれる戦闘機のシーンは、空を飛ぶ軽やかさや躍動感に充ち、私たちを魅了する。そして、そこから私たちが感じ取るのは、決して戦争を支持したり自然を犯すことを赦す思想ではい。
宮崎アニメが大きな人気を博してきた頃には、子供はアニメなど見ずに外へ出て遊ぶべきだ、とも言っている。
自らが抱えているのと同種の悩みを、堀越二郎はその何倍もの重さで抱えていたのだ、と、宮崎監督は考えている筈だ。

この映画を以て、ゼロ戦作りを描いているから(先の戦争を支持しているから)と批判するのは当を得ていない。また、中国や韓国に対して毅然とした態度を取るべきだ、と言うような人たちがこの映画を支持したり誉めているとすれば、大きな勘違いをしていると言うべきだ。

冒頭の夢のシーンで飛行機が屋根から飛び立つシーンの躍動感。
夏の日差し、雪のちらつく冬景色、高原病院のある、早朝の富士山のふもとの凛とした風景など、その季節季節の空気感をしっかりと伝えてくるカット。
関東大震災で街が壊され燃えて行くダイナミックさ、スケールの大きさと、その中を逃げ惑う人々の小ささ。
線路沿いに行く人々を蒸気機関車が蹴散らして行くシーンでの鮮やかなカットの積み重ね。
これらの多くはアニメならではのものと思うが、それでも、どうして実写映画の中でこういう感動を得ることが出来ないのか、と思う。
これらだけでも、この映画は素晴らしい。

奈穂子が高原病院を抜け出して二郎の元へ駆けつけるシーンは、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」で廉姫が城内から戦場へと駆け抜けて行くシーンを思い出し感動した。
ただ、彼女が、「きれいな所だけ二郎に見せるために」病院へと帰って行くエピソードは、感動的だがきれい過ぎる気もするのだがどうなのだろう。堀辰雄の「風立ちぬ」からのエピソードなのだろうか。

エンジン音などの擬音を人の声でやるというのは、大林宣彦監督と言い、巨匠と呼ばれるような人たちだからこそ、実験精神が旺盛なのだな、と思った。
エンジン音や空気を切る音、地震の地鳴りなど、暖かく感じられて驚いた。ただ、宣伝番組のせいで事前に人の声でやることを知っていたため変に意識してしまった。こんなことを知らなければ、もっと素直に感動していたような気がする。

最後にひとつだけ言うなら。
「風立ちぬ」。タイトルのこの一節の次の言葉こそが、この映画のテーマだ。

安倍首相の戦没者追悼式・式辞は間違っています。2013/08/18 10:10:39

安倍首相の、戦没者追悼式での式辞について

国内向けの発言だからアジアへの加害責任には触れなくていいというのは間違っています。
これは、戦没者への慰霊を、『国のために命を捧げた、亡くなった人たちへの慰霊』だ、と認識しているから、このような誤った対応が出てくるのです。

この認識の上で、戦争で亡くなった人たちのおかげで今の平和がある、とよく言われます。
『あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります』
と、戦没者追悼式での安倍首相の式辞にもありました。

ならば訊きたいのですが、
では、もし、あの戦争で我が国が勝っていたら、今の平和と繁栄はあったのでしょうか?
そうではないことは明らかです。
少なくとも、安倍首相が式辞で述べたような、
『自由、民主主義を尊び、ひたすらに平和の道を邁進(まいしん)』することは無かったでしょう。

我が国は、あの戦争で負けたから、戦後の平和と繁栄を得ることが出来たのです。

ならば、その戦争で亡くなった人たちの死を、私たちはどう捉えればよいのでしょうか。
あの戦争の意味、内容に関わらず、戦地に赴いた個々の人たちが『家族のため』、『お国のため』に、と思って戦地へ向かった(送られた)ことは間違いありません。家族のために自らの命を投げ出す覚悟をされていたことは間違いないのですから、その点については敬意を表し、その死を悼むことについては異論はありません。(無理矢理そう思い込むしかなかった、ということもあったかもしれません)

ですが、だからと言って、彼らが『お国のために』死んでいった、ということにはなりません。
彼ら自身の心情と、実際に彼らが行った(行わされた)行為の意味とは別物です。
彼らが行った行為は、アジア諸国への侵略行為でした。
彼らが戦い、死んで行ったのは中国大陸であり、朝鮮半島であり、アジア諸国の土地であり、日本列島内では無いのです。

日本列島内でも(空襲で)死んだではないか、と言われるかもしれません。
確かにそうですが、それは対米国の話です。
太平洋戦争は二つに分けて考えねばいけません。
日本対アジア諸国については、日本による侵略戦争。
日本対連合国については侵略地の争奪戦争です。

ここでは日本対アジア諸国の戦争について語っています。

何故、当時、多くの国民が『お国のため』と称して侵略地に送られたのか、多くの国民がそれに従ったのか。
多くの国民自身が中国侵略を祝い、アジア諸国への侵略に歓声をあげたことは間違いないようです。
しかし、そこには、我が国の侵略を是とするための情報操作、マスコミ操作がありました。侵略各地で我が国の軍が、国民がどのようなことをやっているのか、そのことは国内の国民には覆い隠されていました。
当時の我が国政府は、国民を騙すことにより戦争を遂行していたのです。
あの戦争に、国民の責任が無いのか、と言われれば、そうとは言えないでしょう。しかしながら、当時の為政者と国民とを同列に扱うことは到底出来ません。

何故、多くの国民が戦地に赴き、人を殺さねばならなかったのか、そして、死なねばならなかったのか。
決して、『お国のため』ではない。
為政者による意図により、そうさせられたのです。アジア諸国を侵略し、そのヒトと資源を奪うために。

ならば、我が国の戦没者を悼むための言葉だとしても、『あなた方の犠牲の上に平和と繁栄がある』と言う言い方は、その意に沿いません。
真に戦没者を悼むためには、誤った政策によって彼らを死に至らしめた当時の我が国の行いを反省することが必要であり、当然、そのことは、アジア諸国の人々に対して行ったことへの謝罪と反省にも繋がらざるを得ません。
アジア諸国に対する謝罪と反省無くして、我が国戦没者への慰霊はあり得ないのです。

また、式辞において加害責任への言及を止めたことは、戦術として考えても稚拙だと思います。
せっかく、主要閣僚の靖国神社参拝を止めた意味が、このことにより、半減、或いは無駄になってしまいました。
あることで「譲歩」しながら、その分を別のところで小出しにする、そういう中途半端なやり方は、せっかく行った「譲歩」を無駄なものにしてしまいがちです。私も仕事上よくやる失敗です。

方向性を決めたらその方向で思い切ってやる。
加害責任についてはしっかりと認識し、反省を示したうえでこそ、尖閣諸島や竹島問題についても対中国、韓国だけでなく世界に対して説得力のある主張が出来るのです。
加害責任を有耶無耶にしたままでは、尖閣諸島や竹島問題でどう主張しても、世界から色眼鏡で見られてしまい、共感は得られないでしょう。

スタジオ・ジブリの小冊子『熱風』、「憲法改正」特集号を無料PDFで公開2013/07/19 23:19:26

明日から『風立ちぬ』公開の
スタジオ・ジブリの小冊子『熱風』7月号で「憲法改正」を特集したところ、取扱店で売切れが続出したため、
PDF化してサイト上で無料公開したそうです。

期間限定のため今すぐ!
これを読んで選挙に行こう。

http://www.ghibli.jp/10info/009354.html

自民党、建設業界に4億円の献金要求2013/07/17 22:15:56

十年以上ぶりかで「Friday」を買ったら、こんな記事が。
災害対策を理由に国土強靭化計画だと言って200兆円の公共事業をぶち上げ、その裏でその恩恵を蒙る建設業界に4億7,000万円の献金を要求するとは、こういうのをマッチポンプと言うのではないでしょうか?

折しも、この文書が自民党自民党から日本建設業連合会に送付されたのは、公共事業に4億円を注ぎ込んだ補正予算が成立した2月とのことで、実に巧妙なタイミングですね。

自民党は全く変わっていない。口先だけ。
「やはり自民党しか頼りにならない」というようなイメージだけで政権を委ねるのなら、この国の政治は単に20年逆戻りするだけです。
(記事の詳細は「Friday」でどうぞ)

山本太郎氏のプロモーションビデオ2013/07/17 21:52:00

「新党 今はひとり」で参議院選挙に立候補した山本太郎氏のプロモーションビデオです。

なんだかんだ言っても、それまでの仕事や生活を投げ打って、思ったことに突き進む。当然そこには右往左往もあるでしょうが、
山本太郎氏を支持します。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=l4QYuHGBFdQ

除染に行く前に考えるべき事2013/05/23 01:03:43

これ、どうなんだろう。
福島へ除染に行こう、と若い人たちを誘っているホームページです。

「福島元気祭り 熱き男よ集え!」
http://www.fw-p.jp/josenp/radioactivity.html

自然にも放射線はあるのだから怖がる必要は無い、という常套句で放射能の影響を極力、過小評価しようとして、若い人たちに除染に来るよう誘っています。

曰く、
『放射線とは、太陽から出ている光や紫外線のようなものです』
『放射性物質は、ラジウム温泉の成分であるラジウム等、自然界にも存在します。また、福島の事故で問題となっている放射性物質には、ヨウ素やセシウムなどがあります』

放射線が太陽光のようなもの、とは、上手い言い方かもしれません。
ですが、太陽光と同様に放射線に"当たって"いても、ガンなどになる確率は変わらない、と言うのでしょうか? レトリックによる詐欺まがいの言い方に思えます。

放射性物質は自然界にもある、というのは放射能推進派の人たちの常套句ですが、そこで対象になっているのは、体外にある放射性物質から放たれる放射線が人体に当たる外部被曝のこと。それも当然、怖がるべきですが、本当に怖いのは、その放射性物質の微粒子を体内に吸い込んでしまうことによる体内での被曝、内部被曝です。

古来からある自然界の放射性物質は、体内に取り込んでしまっても、ヒトの長い進化の過程で速やかに体内から排出するようになっています。しかし、人間が新たに作り出した人工の放射性物質(放射性ヨウ素やセシウム137やストロンチウムやプルトニウム等々)には、そんなふうにヒトの体は対応していません。

プルトニウムは地球上で最悪の猛毒物質ですが、外部被曝を考えた時には無視していいような放射能の弱い放射性物質でも、人工の放射性物質は、体内に取り込まれてしまえば排出される事はなく、蓄積されたままになります。そして長期間に亘り、すぐ隣にある正常な細胞に放射線を放射し続けるのです。その時の細胞組織への影響力は外部被曝の比ではありません。
これが、自然界の放射能と人工による放射能との大きな違いです。

どのような種類の放射性物質を取り込んでしまったか、どれだけの量を取り込んだのか、体内のどの部位に取り込んだのか、そのケースバイケースで、内部被曝による発症の態様は様々です。

原爆の爆発に直接、遭わなかったにも関わらず、原爆を落とされた後の広島、長崎に長短に関わらず滞在しただけの人が、その後、急に体調を崩して死亡したり、或いは長期に亘ってガンや大病に苦しんだり、或いは原因不明のまま気力も体力も出ずに体調不良に苦しんでいる、そういう人たちが大勢います。
チェルノブイリ原発事故の後にも、劣化ウラン弾が使用されたイラク戦争の後にも、現地の人たち、そこに従軍した米兵の人たちの中に、同様に苦しんでいる人たちが大勢います。
これらの人たちの症状は、内部被曝によるものと考えなければ説明が付きません。

しかし当然ながら、原爆を使用し、劣化ウラン弾を使用する米国政府や、原発を推進する各国政府、原子力関係の国際組織は、内部被曝の影響を認めようとしません。
認めれば多大な賠償をしなければならなくなり、原爆や劣化ウラン弾を使えなくなり、原発を進めることが出来なくなるからです。

原爆を落とした後、原発事故の後、戦争の後にどれだけの新たな人たちに症状が表れ、苦しんでいようとも、そのの原因が原爆や劣化ウラン弾や原発にあることを彼らは認めません。
曰く、放射能との因果関係は認められない、と。

因果関係が無いという明白な証拠が在る訳ではありません。分からないから、認めない、という「理由」です。分からない、なら、因果関係があるかもしれないのに、またそう考えた方が現実に起きている事象をより良く説明出来るのに、認めないのです。
そんなことがある筈がない。だから、ないのだ、という自己撞着な「論法」で済ませているのです。

彼らが、放射能の影響は無い、と言っているのは外部被曝のことです。(それすらも可能な限り過小に表現していますが)
内部被曝については彼らはハナから影響を認めていないので、何かあっても門前払いをするだけです。


上述のホームページの最後の段には、次のように書かれています。

『活動終了後に起こった病気等、放射線障害等・その他のトラブル等はすべて自己責任となりますので、ご理解の上、お申し込みください。』

もしも高速増殖炉もんじゅをやめたら、どんな影響があるの?が5分でわかる、25のQ&A2013/05/14 12:48:24

もしも高速増殖炉もんじゅをやめたら、どんな影響があるの?が5分でわかる、25のQ&A

http://monjukun.blogspot.jp/2013/05/525q.html

映画「リンカーン」と憲法96条改定問題2013/05/07 00:09:52

スティーブン・スピルバーグ監督の「リンカーン」は、南北戦争、奴隷制度廃止について、その内実の一旦、歴史の裏側を見せてくれます。
しかも、それを、アカデミー賞を受賞したダニエル・デイ・ルイスだけでなく、トミー・リー・ジョーンズ、サリー・フィールド、デヴィッド・ストラザーンらの名演技で堪能出来るという、傑作です。

南北戦争、奴隷制度廃止という大きなドラマと、リンカーンの家族とのドラマとを、ちゃんと目配せを効かせて描くという、日本映画の大作が苦手なところも、しっかりなされています。

しかも、この映画、それだけではありません。

今、この国で大きな問題なっており、夏の参議院選挙で争点となる、憲法96条改定問題に深く示唆する内容となっているのです。

安部自民党や維新の会は、96条が規定する、両議院での3分の2というハードルが高いせいで、改憲が出来ないと言っています。

アメリカ合衆国憲法も、日本国憲法と同じく両議院の3分の2を改憲発議の要件としています。

けれどアメリカはこれまで何度も改憲をやってきました。
その大きな一つが奴隷制度の廃止で、この映画で描かれている中心の話がまさしく、その改憲発議をするために3分の2の議員数をいかにして集めるか、ということなのです。

そのためにリンカーンがどれほどの情熱を以って当たったか。回りの人間を説得し、共和、民主両党の反対勢力と交渉したか。
決して綺麗ごとだけではなかったことも映画には描かれています。

しかしリンカーンは自らの信念に基づいて、時には仲間を騙してまでも事に当たりました。一番大事なことは奴隷制度を廃止すること。それを実現する為に、死に物狂いでやったのです。

しかし、だからと言って彼は、3分の2の賛成が必要というルールを変えようとはしませんでした。
憲法の改正要件は、国民が定めた、憲法の根幹を成すルールだからです。

9条を変えたいのか、道州制を入れたいのか、何をしたいのかを問わず、自分たちのやりたいことを実現しやすいように、まずはルールを変えようなどと言う行為がいかに恥知らずなものか。
この映画を観れば、よく分かります。

96条を変えろと言っている人たちには、この映画を観て、己の姿を顧みろ、と言いたいです。
そして夏の参議院選挙の前に、一人でも多く人に、この映画を観て貰いたいと思います。

因みに、両議院での発議の後、日本国憲法では国民投票で過半数の賛成が必要となっています。
アメリカ合衆国憲法では国民投票はありませんが、代わりに、全州の4分の3の州での批准が必要とされています。

日本国憲法に負けず劣らず「高いハードル」です。
それでもアメリカは憲法改正を行ってきています。
そのためには広く深く、何度にも亘って議論がなされてきたでしょう。
安倍首相は「憲法を国民の手に取り戻す」などと言っていますが、憲法改定に対して、そうやって議論を積み重ねてゆくことこそが、「憲法を国民の手に」ということではないでしょうか。
カウンター 無料SEO対策激安発見オンラインカジノ激安ショップ