「スティーブ・ジョブズ」2011/11/12 21:24:58

これまで、色んな雑誌の記事や本で、スティーブ・ジョブズの人となりの断片を読んできた。
独創性、執拗なまでの集中力、回りの人達を傷付けることも厭わない追い詰め方、エゴイズム。

この本には、その全体像と、それらの事象の先に(奥に)あったことが描かれている。

スティーブのやり方(在り方)の優れた点、批判されるべき点、どちらかに傾いているとは思われない。
著者(ウォルター・アイザックソン)が真っ正面からスティーブに質問し、その答えを聞いた後で、なお、それに対して著者が疑問を呈している箇所もある。
それも、それまでの取材の裏打ちがあるから説得力がある。

「君の本には僕の気に入らないことがたくさん書かれるはずだ」
スティーブが著者に問うた時、著者は、それは間違いないよ、と答えた。
するとスティーブは、「それなら社内で作った社長礼讃本みたいになる心配はないな」と喜んだと言う。
「かっかするのは嫌だから、読むのは1年後くらいかな」と。

   ×   ×   ×   ×   ×   ×

僕がパソコンを買おうと思ったのは、当時、会社で残業続きで、それも違法残業(いわゆるサービス残業)だったから、どうせならパソコンを買って家で仕事をするか、と考えたのがきっかけだった。

それでパソコン関係の雑誌を幾つか読み出したところ、
『人が機械に合わせるのじゃない。機械を人にあわせるんだ』
という言葉に一発で参ってしまった。
アップルのマッキントッシュというパソコンのコンセプトだった。
それまで、アップルコンピュータという会社も、マッキントッシュというパソコンも、全く知らなかったのに。

家で仕事をするためなら、PC98を買う方が正解だ。
だが、僕は、Macが欲しくなっていた。PC98など、もう目の中に無かった。
迷いに迷った挙げ句、マッキントッシュLCIIを買った。
その時には仕事にはすぐには使えなかったが、
後にPowerBook145Bを買った時、Microsoft Excelを同時に買い、会社に持ち込んで、会社のシステムから取り出したデータをExcelで読み込み、データ分析をした。
当時、そんなことをやっていた社員は、そうそういなかったろうと思う。(今ではデータセキュリティ上、出来ないやり方だが)

Macのことを知り、買いたい、と悩んでいた頃、街中や雑誌、書跡の記事などでアップルの文字を見ると、心臓がドクン! と跳ね上がった。
比喩でなく、アップルに、Macに、恋をしていたと思う。

アップルという会社、Macという製品は、そんなユーザと共にあったのだし、その結果が今に繋がっているのだと思う。

『春嵐』2011/06/14 01:31:55

ロバート・B・パーカー著、スペンサー・シリーズ最終作。
著者亡き後、もうこの後に続く作は無い。

書店の棚で見かけることは殆ど無かったこのシリーズなのに、
日曜の夕方、久しぶりに入った書店の棚の中に、ポン、と、1冊だけ。

買え、ということか。(笑)

このシリーズはずっと、新刊が出る度に、図書館で借り出してきて読んでいた。
最終刊くらいは手元に置いてもいい。
いや、置きたい。

けれど、
買っても、読んでしまうのが怖い気がする。(笑)
このまま読まないままで置いてしまうかも。

読む時はやはり、図書館で借りてきて、読むのがいいかな。(笑)

ロバート・B・パーカー氏、死去2010/01/22 00:59:19

誘拐
ああ、

もうこれで、スペンサーを読むことは出来ないのか・・・。

村山由佳『ダブル・ファンタジー』2009/11/13 02:11:49

すごいな。
感嘆しました。

是非、読まないと。

http://www.yuka-murayama.com/e631.html?PHPSESSID=fin49srm61qiu42duq5juha6i3

「人間って、・・・」2009/05/06 00:20:30

「・・・人間って、動物だものね。いとしい人と体を暖め合ったり、唇を合せたりすることで、充足出来るって、本来の姿なのよね。私、今日、ランディに会うの。会ったら、きちんと伝えるの。抱き締めてくれるだけで何もいらないって」
ーー山田詠美『トラッシュ』

『望みは何と訊かれたら』(小池真理子著)2009/03/22 02:18:30

こんな本読んだら、深く溜め息でもついて、ボーーッとしてるしかないですね。

「今」と「思い出」が入れ替わって行く。
「今」だと思っていたものが「思い出」に変わって行き、「思い出」だと思っていたものが、今、目の前に現れてくる。

自分でさえ気付いていなかったものを、知らずに自分が求めている。
どれが本当の自分なのか。

時をどれだけ積み重ねていても・・・、

怖いなぁ、と皆、思いつつ、心惹かれるのでしょうね。

『深海のYrr(イール)』2009/03/08 22:43:41

ぷはあ〜っ。

どんと分厚い文庫本(700ページはあったのじゃないか?)が上・中・下で3冊。
もともと遅読の私が2週間で読む、ということがそもそも無理でありました。
で毎夜の深夜読書、しまいにはクマが出そうになって、3週間でようやっと読み終え、返しました。
ごめんなさい、○○図書館さん。m(_ _)m

しかし、話題になるだけのことはあるスケールの大きさと情報量の膨大さ。人物描写もしっかりしている。

久々に大型本格SFを堪能した気分。とは言え、そんな読書家ではありませんが。

あとがきによれば、はやハリウッドで映画化が進行中とのこと。それはそうでしょう。
しかし、あの文量を映画化するとなると大胆な省略が必要ですね。
恐らく、シグル・ヨハンソンとジューディス・リーの対決に絞ってくるのじゃないかな?

キャスティングは、本当なら北欧系ということもあって、シグルにはエルランド・ヨセフソンが雰囲気から言っても適役と思われるのですが、ちょっと歳を取り過ぎですね。
とすると誰だろう?
ジョージ・クルーニーは年格好はいいと思うけれど、ギラギラしすぎ。
リーの方は、すぐに頭に浮かんだのは、ニコール・キッドマン。
ナオミ・ワッツもいいかな。

ただ、作品のイメージ的に「アビス」とかぶりそうなリスクがありますね。

甘粕雅彦2009/01/19 02:02:20

甘粕雅彦と言えば、1923(大正12)年9月16日に起きた関東大震災の混乱の中で、無政府主義者・大杉栄を、共にいた伊藤野枝、甥っ子と共に斬殺し井戸に放り投げた人物(当時、麹町憲兵分隊長)として知られる人物ですが、一面的には図れない傑物であったことは確かなようです。

今、佐野眞一氏が書かれた『甘粕雅彦 乱心の曠野』という本に目を通しているのですが、その中で、佐野氏は、この大杉殺害事件について、甘粕は軍のスケープゴートに去れたのではないか、と言っています。

それはそうとして、ここにこんなことを書き始めたのは、甘粕の"傑物"たることを示した一エピソードに正しく、口を大きく開いて驚いてしまったからです。
これまで特に甘粕の事を知っていた訳ではありませんが、大杉殺害の首謀者というイメージからはほど遠い、実直さ、度量の深さが伺えたからです。

以下、『甘粕雅彦 乱心の曠野』から引用します。
甘粕が1939(昭和14)年11月1日、満州映画協会(満映)の理事長に着任後、日本へ一時帰国した際の話です。

<ここから>===========================

 その頃日本に帰国して国民精神総動員のポスターを見た甘粕が憤慨する場面を、武藤富男が前掲の『甘粕雅彦の生涯』のなかに書きとめている。

 <「日の丸の下に国民精神総動員などという文字を書いたポスターを至るところに貼ってありますが、こんなことで、精神が総動員されると思っているのがまちがいです。宮城の前を電車が通る時、帽子を脱いで頭を下げさせることになったようですが、こんな馬鹿なことをさせる指導者は、人間の心持がわからない人たちです。
 こういうやり方は偽善者を作ることになります。頭を下げたい人は下げたらよろしいし、下げたくなかったら下げなくともよろしい。国に対する忠誠は、宮城の前で頭を下げる下げないで決まるわけではありません」>

<ここまで>===========================

結局、「右」か「左」か、じゃない。真っ当な頭を持ってるかどうか、なんですね。
「思想」が異なっても、同じ土俵に立つことは出来る。

更に、甘粕はこうも言っています。

<ここから>===========================

 武藤が「そういう精神指導は誰がやっているのでしょう」と見えすいたことを尋ねると、甘粕は言下に「そりゃ、軍人どもですよ」と答えた。そして、こうつづけた。
「それから軍人に迎合する人たちですよ。軍人というものは、人殺しが専門なのです。人を殺すのは、異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです」

<ここまで>==========================

身近に自衛隊員の人がいる方にとっては抵抗のある言葉でしょうが、『一種の気ちがい』と言っているのですね。でも、一つの真実を言い当てていると思います。

「彼の死の意味」(小田実)より2008/08/11 00:50:05

「彼の死の意味」(1971年発表----三島由紀夫の自決に対して)
ーー『「難死」の思想』(小田実著:岩波書店刊)所収
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 三島氏は失敗に終った二・二六クーデタの青年将校たちを大変に賛美した。彼にとって事件をもっとも象徴するイメージは、その日の雪だった。雪は白く、まるで青年将校たちの純粋性を象徴するかのように白く、現実の世界の全てを瞬間の美しさでおおう。三島氏はある作品の中でそれをたくみに説得的に描いている。しかし雪はとけはじめ、汚れ、そして、企てられた反乱そのものをふくめて、現実世界の裏面があらわに顔を出す。こうしたすべてについて、彼は注意深く言及をさけた。私は三島氏がかつて、蜂起参加を命令され、なにも知らされずに乱に加わった兵士たちの運命について考える時間を持ったかどうか疑わしく思う。反乱の失敗ののち、彼らは満州か中国に送られて、そこでただ中国人との戦闘で殺されるためにだけ生きた。三島氏の主な関心は青年将校たちにあり、彼らの私心のない天皇への忠誠は、三島氏の生き方だけでなく日本人すべての生き方の指導原理でなくてはならない、と彼は信じた。
 第二次世界大戦が終わりに近づくにつれて、人々は空襲のなかで虫ケラのように死んだ。自然の災害で人々が死んで行くのと同じように。私は十三歳の少年として明日は自分が黒焦げの死体になるかも知れないとおそれながら、この悲劇を目撃した。私が生まれ育った大阪にとりわけはげしい大空襲のひとつがあったのは、日本の降伏の公式発表があったつい一日前のことだった。たくさんの人々が死んだ。そして、死体がばらばらにちぎれて散乱しているなかで、私は一枚のビラをみつけた。それはアメリカの爆撃機が落としたもので、日本人に宣言していた。「あなたがたの政府は降伏した。戦争は終わった!」私は自分に問いかけていた。この人たちはみんな、何のために死んだのだろう。まったく無意味な死だった。
 戦後、私はしだいにこの無意味な死のほんとうの意味を発見していった。国家と人びとのあいだに、大義名分と個人の生き方のあいだに、そして、もちろん、天皇と我々一般市民のあいだに、あきらかな裂け目を見ることで。三島氏は同じ無意味な死と裂け目を見たに違いない。けれども彼は解決しようもないそうした裂け目を見つけ出していても、決してその意味を理解しなかった。裂け目そのものに、美学的であれ政治的であれ彼の思考の基礎をおくことの代わりに、彼は後者を前者に従属させることでその裂け目を満たそうとした。ここで私は三島氏からはっきりと別れる。三島氏の陣営と(おそらく佐藤や中曽根の陣営も)、私の属する陣営はことなっている。私のほうのそれは、明快なイデオロギーのことばでは説明はつかないが、その一番いい名前は、たぶん「人びとの陣営」だろう。

「デモ行進とピラミッド」(小田実)より2008/08/11 00:03:17

最近読んだ本からの覚え書きです。
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「デモ行進とピラミッド」(1969年発表)より
ーー『「難死」の思想』(小田実著:岩波書店刊)所収
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 「デモ行進の思想」というようなものがあっていいと私は考える。デモ行進の体験に根ざした、そこから出発するものの考え方、たとえば、民主主義観と言うようなものがあっていいに違いない。あるいは、人間観、論理、倫理。
 デモ行進のなかで歩いていて、一つ感じるのは、自分の体の中のピラミッドが音をたてて崩れ去ることである。おそらく、人は誰しも体内にピラミッドをもっているのだろう。それは次のようなピラミッドだ。
 たとえば、あなたがある革新政党のえらい人だとする。革新政党でもこのごろは立派なビルディングが本部だから、委員長だか書記長だかのあなたは本部のそうした人のための室にいる。外界の風はそこまで吹き入って来ない。そこまで来るためには、玄関があってロビーがあって受付があってエレベーターがあって長い廊下があって応接室があって控室があって、右翼が乗り込んでくる事はなかなかむつかしい。いや、そうしたのが来れば、あなたはただちに部下の右翼係に命令して彼に合わせるだろう。「お話はその人に言って下さい。」あなたは右翼に電話でそんな風に言ってすませる。うるさい何トカ派の学生が来たら、左翼係。弁舌の立つのをそろえておこう。いや、このごろの学生は「ゲバルト」好きだから、右翼係同様に屈強で、しかも、頭のいい奴だ。こうしたあなたの城の本拠までたちどころに達するものがあるとすれば、それは、逮捕状をもち、家宅捜索令状をもった警官たちだけだが、あなたは、自分の城の快適さになれてしまって、そうしたものさえもがもはや自分のところにまで達し得ないのだという錯覚にかられる。あるいは、その快適さを維持するために(たとえ、それが幻想であれ、幻想は壊したくはないし、その幻想の下で重要な事が出来る!)、きわめて「合法的」に生きようとする。
 (略)おそらく、それは、(略)多分に人間ひとりひとりの精神の問題なのだ。直接的な聖治のことがらを離れて考えてみてもよい。人間、誰しもいやなことはいやなことだ。死体がころがっていれば、葬儀屋にまかせよう。事故を起せば、事故係にまかせよう。(略)自分ひとりの心の中にもピラミッドはあって、私たちは、架空の事故係や女房や犬にさまざまな事を押しつけているのではないか。自分で全面的にその事に正面からぶつかる代わりに。
 デモ行進に出ると、そうしたピラミッドはあっけなく崩れて平らになる。あなたがおえら方であったところで、自動車に乗っていてはデモ行進にならない。まず、あなたは歩く。それだけで、あなたの背丈はたちまちとなりの見知らない若者と同じになって、もはや、あなたはピラミッドのいただきからの、あの全体を見わたす展望をもっていない。あなたはみんなと同じふつうの人間で、二本の足でいっしょに歩くしかない人間で、あなたの横にはあなたのための事故係も犬も右翼係も左翼係もいない。右翼が近づいてきてもあなたは生ま身の自分をさらけ出さなければならないだろうし、何とか派の学生にむかっても正面からむきあわなければならない。いや、そこでいやおうなしにもっともむきあわなければならないのは、デモ行進を規制しようとする警察機動隊のジュラルミンの楯だろう。彼らは、その気になれば、あなたがどのようにえらい人間であろうと、容赦はしないにちがいない。デモ隊に対する放水は区別なくあなたを濡らす。あなたのからだの中のピラミッドを水びたしにする。どこにも、もはや、逃げ場はない。
 そうした状況のなかで、あなたが感じるのは、自分がひとりでむき出しに権力のまえに立っているという感覚ではないのか。デモ行進の指導者は、なるほど、「ここに結集した一万人の市民は・・・」と叫びたてているかも知れない。しかし、その一万人は決してあなたを護るためにピラミッドをかたちづくっているのではない。どれだけの数の人間がそこにいようとも、結局、あなたはひとりなのだ。それは異様にきびしい、また、さびしい感覚で、私自身、何度かそうした感覚をもった。もっとも、そんなふうな感覚は、たとえば、メーデーのお祭り騒ぎのデモ行進の中では生まれて来はしないだろう。そうしたお祭り騒ぎのデモ行進は、ピラミッドがそのまま移動して行くようなもので、あれはデモ行進ではない。
 その感覚がきびしく、さびしいのは、一つには、あなたがピラミッドをもたず、むき出しで権力のまえに立っているのに、権力のほうはピラミッドで対しているからなのにちがいない。いくらあなたが「佐藤政権打倒」を叫んでみたところで、あなたの声はピラミッドの頂上の佐藤栄作氏の耳にはとどかず、あなたが相手にしているのは、実際にはあなた以上に惨めな生活を送っているかも知れない機動隊員なのだ。そして、今もし、あなたがその機動隊員に捕まえられたとするなら、あなたはたちまち国家権力のピラミッドの奥ふかくとらえられてしまって、気がついたときには、犯罪者としてピラミッドの頂上に引き出されているのかも知れない。
 一万人の市民がデモ隊の中にいたとしてもあなたはひとりだ。ということは、あなたの行動を決めるのはあなた自身であり、あなた自身以外にはないということだろう。それはまさに「自立」だが、あなたのその姿勢には、そうしたことばがともすればいざないがちな強いイメージー強者のイメージはない。もちろん、あなたがそこに踏みとどまっている以上はあなたは決して弱者ではないはずだが、そこに雄々しさがまぎれもなく見られるとしても、それはあくまで人間的な、等身大の雄々しさであって、巨人のものではない。そして、連帯があるとすれば、むしろ、それは、自分がひとりだという自覚から来るだろう。ひとりである自分がデモ隊の中には無数にいるという自覚ーそれが辛うじて連帯をかたちづくり、その連帯は強い。それしか自分にはあり得ないと人間が自覚したとき、それは強い。
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小田氏は、このデモ行進の中から得られる民主主義の根幹は、「自立」だといい、投票所・議会というイメージから連想される、多数決を基礎とする民主主義の考え方と対置します。
多数決は、「自立」の積み重ねの結果、採用される政治運用の技術に過ぎない。
それに対して、「自立」を根幹とする民主主義とは生き方の原理なのだ、と。

私はこのようなデモを経験したことはありません。
だから、デモを経験するなかで得られてくる、このような感覚、思想をとても新鮮に感じます。

60年代、70年代にはこのようなデモはもっと多く行われていたのでしょうが、現在ではめっきり減っています。
それは、このような、行動の中から生まれてくる民主主義の感覚・思想を、現代の多くの日本人が遠く忘れてしまったということでもあります。

現在でも、数はずっと少なくなっても、沖縄・辺野古での反基地運動、プラレカリアートによるデモ等、小田氏が示しているようなデモ行進は行われています。
警察の対応も、「連合」などによる整然としたデモへの対応とはまるで異なるようです。
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