杉原千畝・幸子氏の遺した言葉2009/01/12 19:03:38

第二次世界大戦時、リトアニア日本領事代理だった杉原千畝氏は、日本外務省の意向に関わらず、自らの判断で多くのユダヤ人にビザを発行し、その命を救いました。
『六千人の命のビザ』として知られている事実であり、イスラエルはそのことに感謝して1985年、氏に対してヤド・バシェム賞を授与し、「諸国民の中の正義の人」に列しました。(氏は1986年に死去)

自らの立場を考えればそのようなことは出来なかった筈なのに、何故、ユダヤ人に対してビザを出し続けたのか。
千畝氏は晩年、次のように語ったそうです。

『なぜ私がこんなことをしたのか知りたいのでしょう? そうですね、実際に難民が目に大粒の涙をうかべて懇願してくるのを実際に見れば、誰でも憐れみを感じるでしょう。それは同情せずにはおれないようなものです。かれら難民の中には、お年寄りや女の人もいるんです。彼らは必死のあまり、私の靴にキスさえしていました。ええ、そういう人を実際にこの目で見ましたよ。それに、当時の日本政府は(この件について)まとまった見解がないように感じていました。軍部はナチスの圧力を恐れていましたし、ほかの内務省の役人は単に態度を決めかねているだけでした。

日本の人々は統一した見解をもっていないようだったので、彼らとやりあうのは馬鹿らしいと思いました。それで、彼らの返事を待たずに事を進めることに決めたんです。あとで確実に誰かから叱られるだろうとは思っていましたが、自分ではこれが正しいことだろうと思いました。人々の命を救うのに悪い事は何もないはずですからね…。それは人間愛、慈愛、そして隣人愛といったようなものです。こういったものにより私はこの最も困難な状況にあって、自分のしたことを思い切ったわけです。そしてこうした理由により、私はさらに勇気づけられて先へ進みました。』
(wikipediaより)

この言葉を、今、ガザの人たちを殺し続けているイスラエルに返したいと思います。

千畝氏の妻、幸子氏は昨年(2008年)10月に亡くなられましたが、氏は、2002年にイスラエルが、ヨルダン川西岸地区(今、虐殺が行われているガザと並ぶ、もう一つのパレスチナ人自治区)を攻撃した際に、時のイスラエル首相シャロンに宛て、
「夫杉原千畝の書いた命のビザは、あれでよかったのかと悩まざるを得ない」
という手紙を送ったそうです。

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